緯度と経度【地理のハナシ】
第1部 第1章 世界の姿(3)
はじめに
- 世界の国々や都市の位置を表すには、どのような方法があるのかを整理してみましょう。
- 緯度や緯線、赤道と経度や経線、本初子午線などの重要語句を解説しています。
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1.緯度と緯線、赤道
緯度とは、赤道を基準として地球を南北に90度に分ける角度のことです。緯度は赤道を緯度0度として北側を北緯、南側を南緯として分けます。緯線とは、地球上の緯度が同じ場所で結んだ線のことです。緯線は赤道を基準にして平行に引かれ、南北をそれぞれ90度に分けます。赤道とは、緯度0度の緯線のことで、全周が約4万kmにも及びます。地球を赤道で分ける場合、北側の半球を北半球といい、南側の半球を南半球といいます。赤道という言葉は、古代中国の星図で天球の赤道を赤線で描いたことに由来します。
緯度あるいは緯線という言葉は、どのように使われるようになったのでしょうか。次の文献にはこのようにあります。
もともと、「緯」は横糸の意味であり、「経」は縦糸の意味である。これがのちに大地の東西方向を指すようになった。一方で、「度」は天球や星の位置を測る目盛りとして、中国では漢の時代以降に天文書に見られる。これらを結び付けて地球に当てはめたのが、マテオ・リッチの『坤輿万国全図(こんよばんこくぜんず)』である。
引用:『日本国語大辞典 第二版①』P.1226
緯度や経度という言葉は、それまで使われていた言葉を組み合わせてつくられたものであることが分かります。横糸と縦糸をあらわす「緯」と「経」に、天球や星の位置を測る目盛りをあらわす「度」を組み合わせて、「緯度」と「経度」という言葉が使われるようになりました。この言葉を使って、世界地図上に緯度や経度、そして緯線や経線を描いたのがマテオ・リッチという人物です。マテオ・リッチは、イタリアのイエズス会の宣教師で、中国の明の時代にカトリック布教の基礎を築きました。広東省の肇慶(ちょうけい)では、月食を利用してこの地の経度の測定にも成功しています。彼は、その科学知識によって中国人の尊敬を集め、熱心な信徒を獲得し、さらに世界図をいくつか描きました。その一つが、1602年に北京で刊行された『坤輿万国全図(こんよばんこくぜんず)』です。このように、マテオ・リッチの活躍によって「緯度」と「経度」、「緯線」と「経線」という言葉が中国、あるいは日本に定着していきました。
2.経度と経線、本初子午線
経度とは、本初子午線を基準として地球を東西に180度に分ける角度のことです。経線とは、北極と南極を結ぶ線のことです。本初子午線とは、経度0度の経線のことで、経度を測る基準となります。本初子午線は、イギリスの首都であるロンドンの郊外にある旧グリニッジ天文台を通る経線のことです。経度は、本初子午線を経度0度として、東側を東経、西側を西経として分けて表します。そして、ほぼ経度180度付近には、日付変更線が設置されています。
それでは、経度と経線、本初子午線について詳しく見ていきます。
2.1.経度と経線
地表を緯度と経度であらわすこころみは古くからあり、紀元前の2世紀頃の天文学者ヒッパルコスや、紀元後の2世紀頃の天文学者プトレマイオスなどの活躍があります。ヒッパルコスについて、次の文献にはこのようにあります。
ヘレニズム期の天文学者ヒッパルコスは、各地点を決定するための座標系として、地表を360度の子午線によって等分し、1度が60分に、1分が60秒に置換される等間隔の経緯線網を考案した人物であるとされる。
引用:石橋悠人『経度の発見と大英帝国』P.24
上記のように、ヒッパルコスは、地表を360度の子午線で分けることと、等間隔の経緯線網を生み出した人物であると考えられています。そして、ヒッパルコスが示した経緯線網の理論化をしたのが、プトレマイオスという人物です。プトレマイオスが活躍した古代ローマの時代には、ローマ帝国の拡大に伴って遠隔地の地理的情報がヨーロッパ世界に流入しました。そうした資料をもとに記されたプトレマイオスの『地理学』では、世界図を描くための原理と世界の経緯度についての記述がみられます。プトレマイオスは、経度の基準となる本初子午線をカナリア諸島の「幸福諸島(Fortunate isles)」に引いて、その他の経緯線も描きました。
いわゆる大航海時代が始まる1490年代には、海上での経度の測定が重要になり、月の角距離を算出する方法や、クロノメーターという精密な時計の開発も進みました。近世のヨーロッパでは、スペインやポルトガル、イギリスなどの国で、経度の測定を進めるために巨額の懸賞金がかけられることもあったそうです。次の文献にはこのようにあります。
経度法の骨子は、「海上において実用的かつ有用と認められる」経度測定法を確立したものに対し、巨額の報奨金の授与を約束することにあった。報奨金の金額は、達成された経度の測定値によって決定される。最高額の賞金は2万ポンド。当時の2万ポンドの価値には諸説あるが、おおよそ今日の100万ポンドから350万ポンドの間だと考えられている。
引用:石橋悠人『経度の発見と大英帝国』P.31
大航海時代以降は、経度の測定方法を確立することが重要な課題でした。広大な海を航海する時は、船が難破することも多く、航海の基準となる経度が必要不可欠でした。そういった背景から、上記の文献にあるように、賞金を出してでも正確な経度を測ることが求められたのでしょう。さらに当時は、航海者や地図製作者によって経度の数値が表示されるとき、グリニッジ子午線以外にも様々な本初子午線が選ばれていたようです。そうすると、経度が正確でも基準となる本初子午線が異なるので、航海時にどの経度を選ぶのか混乱が生じてしまうでしょう。このような中、イギリスの天文学者ネヴィル・マスケリンの下で、1767年に『航海年鑑』が完成しました。これは、グリニッジ天文台を通過する子午線を基準として記された早見表のことです。この『航海年鑑』の完成以降、グリニッジ天文台を通過する子午線を基準として、経度を計算することが各国に広まりました。
2.2.本初子午線
子午線の名の由来は、方向を十二支で表したときの北の方向の「子」と南の「午」とを結ぶという意味です。同時に東西を結ぶ線を卯酉(ぼうゆう)線と呼ぶこともあります。
旧グリニッジ天文台を通る経線が本初子午線になったのは、19世紀のことです。1884年にアメリカのワシントンD.Cで開かれた国際子午線会議で、投票の結果、グリニッジ子午線が本初子午線に採用されました。この会議を受けて日本では、1886年(明治19年)に、「本初子午線経度計算方乃標準時の制」で、グリニッジ子午線を本初子午線にすることが定められました。
出典など
参考文献
デレク・ハウス著/橋爪若子訳 『グリニッジタイム 世界の時間の始点をめぐる物語』2007 東洋書林
『改定新版 世界大百科事典』2007 平凡社
『日本大百科全書』1994 小学館
引用文献
石橋悠人 『経度の発見と大英帝国』2010 三重大学出版会
『日本国語大辞典 第二版』2000~2002 小学館