地球儀と世界地図【地理のハナシ】

第1部 第1章 世界の姿(4)

はじめに

  • 地球儀の世界地図の長所と短所を、それぞれ確認してみましょう。
  • 地球儀世界地図メルカトル図法正距法図法モルワイデ図法)などの重要語句を解説しています。
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1.地球儀について

地球儀とは、地球をかたどってつくられた模型図のことです。地球儀は、面積や距離、方位などがほぼ正しくつくられており、地図と比べることで地図のゆがみなどを理解することができます。

最初に地球儀がつくられたのは、地球が球体であると考えられていた古代ギリシアや中世のアラビアであったと言われています。現在まで残る最古の地球儀は、1492年にドイツの地理学者ベハイムがつくったもので、これは当時の最新の知識が取り入れられたものでした。次の文献にはこのようにあります。

この地球儀の表面に描かれている地図は、ローマ時代の天文学者プトレマイオスの世界地図に基づいている。しかし、マルコポーロの『東方見聞録』によって中国や日本をアジアの東端に表現し、ポルトガルの航海者バルトロメオ・ディアスのアフリカ探検の結果を取り入れ、アフリカを喜望峰の南端として表現しているなど、当時としては新知識を取り入れたものであった。

引用:『日本大百科事典15』P.184

上記のように、べハイムの地球儀は、プトレマイオスの世界地図に、マルコポーロによるアジアの東端の情報と、バルトロメオ・ディアスによるアフリカの南端の情報などが取り入れられた最新の地球儀だったようです。このようにしてつくられた様々な地球儀は、大航海時代以降にさまざまな地域へも運ばれ、日本にも地球儀が伝わりました。日本への地球儀の伝来の正確な年代は不明ですが、1580年に織田信長が地球儀を所有していたと考えられています。また、1591年に天正遣欧使節が豊臣秀吉にヨーロッパ製の地球儀を献上しており、江戸時代に入ってからは、国内でも各種の地球儀がつくられるようになりました。

2.地図について

地図とは、地球表面の全部または一部を記号や文字を用いて平面に描いたものです。地図は様々な土地の情報を伝える手段であり、私たちの活動や日常生活になくてはならないのものです。

世界で最初に文明が栄えたバビロニアでは、粘土板に刻まれた地図が発見されています。古代ギリシアの初期には、世界は円盤状で、オケアノスとよばれる大洋に取り囲まれていると考えられていました。しかし、古代ギリシアの哲学者アリストテレスは、地球が球形をなすことを科学的に証明しました。ヘレニズム時代の学者エラトステネスも、エジプトのアレクサンドリアとシエネの間の子午線を測り、地球の円周を初めて測定しました。さらに、古代ローマ時代の天文学者プトレマイオスも、世界中の都市の位置を経緯度で示した『地理学』を完成させています。しかし、中世のヨーロッパでは、神学がすべての学問を支配し、科学的な世界観が否定されることになりました。それまでの科学的な根拠をもとにつくられた地図ではなく、神学の考え方のもとでTO地図がつくられました。このTO地図は、中心にキリスト教の聖地であるエルサレムをおき、陸地が円形にオケアノスで囲まれ、陸地の上半分がアジア、下半分が地中海を境として左側にヨーロッパ、右側にアフリカとして表現されています。

このように、時代によって地図の表現の仕方が異なります。古代ギリシア以降は、科学的な根拠をもとに地図がつくられましたが、中世のヨーロッパでは、科学的な考え方が否定されたことで、キリスト教の世界観に基づく地図がつくられました。しかし、十字軍の遠征によって、地図の表現の仕方が大きく変わることになります。次の文献にはこのようにあります。

十字軍の遠征の失敗によって教会の勢力が弱まると、古代ギリシア・ローマ時代の科学の考え方がヨーロッパに復活することになった。15世紀にはプトレマイオスの『地理学』と『世界図』がイタリアで印刷され、15世紀末からの大航海時代には、世界の水陸分布の知識は次第に正確なものになった。

引用:『日本大百科全書15』P.224

上記のように、十字軍の遠征が失敗したことで教会の力が弱まり、改めて科学的な根拠をもとに地図がつくられ始めました。さらに、大航海時代が科学的な地図つくりを後押ししました。大航海時代以降、世界中を航海する時に正確な地図が必要となり、より正確な地図つくりが求められるようになりました。印刷技術の進歩によって世界地図が多く出版されるようになると、地理学者のアブラハム・オルテリウスは、初めて銅版による近代的な世界地図をつくりました。また地理学者のメルカトルは、1569年の世界地図でいわゆるメルカトル図法を採用しています。18世紀後半、探検家のジェームズ・クックの活躍によって、南半球の大部分が海であることが判明し、ほぼ完全な世界地図が成立することになりました。他には、オランダの天文学者のヴィレブロルト・スネルは、初めて三角測量を行い、科学的な測量に基づいて精密な地図をつくる道を開きました。フランスでは、18世紀末に三角測量に基づく全土の8万6400分の一の地図が完成し、イギリス、ドイツ、デンマークなども、18世紀末から19世紀末にかけて相次いで本格的な三角測量を始め、科学的な地図がつくられるようになりました。

このような歴史的な背景をもとに、現在でも使われている地図がつくられていくことになります。それでは、現在でも使われている地図の図法について、詳しく見ていきましょう。

2.1.メルカトル図法

メルカトル図法とは、1569年にメルカトルが考案した図法のことです。メルカトル図法は、緯線と経線が直角に交わるので、地図上の二つの点を結んだ直線上では経線に対して常に同じ角度になります。どの地点でも経線は南北を正確に示すため、羅針盤を使った航海には重要な図法でした。しかし、赤道から高緯度になるにつれて面積と距離は拡大されてしまい、形のゆがみが大きくなる特徴もあります。

メルカトル図法の生みの親であるメルカトルは、本名をゲルハルト・クレメルといい、1512年にフランドル(現在のベルギー)のルペルモンデで生まれました。メルカトルという名前は、彼がルーヴァン大学に入学したときにクレメルをラテン語化して名乗ったものだそうです。1569年に出版した世界地図に用いた正角円筒図法が、羅針盤を使った航海に都合がよく、メルカトル図法として現在まで高い評価を得ています。しかし、メルカトルが出版した世界地図は、出版した当時は不評であったようです。次の文献にはこのようにあります。

1569年に発行したマリノス図法に基づく『メルカトル世界地図』はむしろ不評だった。30年後の1599年にエドワード・ライトE.Wrightがこの地図投影の数学理論と数表を発表し、1646~47年にダドレイSir R.Dudlyがこの地図投影による海図集『海の秘密』を出版してから、メルカトル図法と呼ばれ、それによる海図が普及し始めた。

引用:『日本大百科全書15』P.229

上記のように、メルカトルの世界地図は、出版した当時にはあまり評価されなかったようです。これは、メルカトルが地図をつくる時に必要となる数学的な根拠を明らかにしていないことが原因だと考えられています。しかし、後世の人々の活躍からメルカトルの世界地図の数学的な根拠が明らかになり、さらにこの地図が書物で紹介されたことから「メルカトル図法」という呼び方が広がっていきました。

また、現在では地図帳のことを「アトラス」と呼ぶことがありますが、このこともメルカトルと関係があります。次の文献にはこのようにあります。

没後1595年に息子のルモルトによってそれまでに作成された地図を集めた地図帳が刊行された。これが世界ではじめてアトラスと名付けられた地図帳である。

引用:『地図投影法 地理空間情報の技法』P.64

上記のように、メルカトルがつくった地図を集めた地図帳を、彼の息子のルモルトが刊行しています。その際、諸説ありますが、ギリシア神話の巨人アトラスが描かれていたことから、ルモルトはこの地図帳を「アトラス」と名付けたそうです。このことにより、現在でも地図帳のことを「アトラス」と呼ぶことがあります。

2.2.正距方位図法

正距方位図法とは、中心からの距離と方位が正しく表せる図法のことです。正距方位図法では、図の中心から任意の地点までの最短コースが直線で示されるので、航空図に利用されます。しかし、図の中心以外の地点同士を結んだ線は、距離も方位も正しくないので注意が必要です。また、図の中心から外周にいくほど形のゆがみが大きくなるという特徴もあります。

2.3.モルワイデ図法

モルワイデ図法とは、1805年にドイツの天文学者で数学者のモルワイデが考案した図法のことです。モルワイデ図法では、面積を正しく表すことができ、緯線は平行で表され、中央の経線が直線、それ以外の経線が弧で描かれています。高緯度地方でも比較的形のゆがみが小さいことから、各種の分布図など、世界地図の図法として広く用いられています。

出典など

参考文献

『改定新版 世界大百科事典』2007 平凡社

『地理用語集 第2版』2019 地理用語研究会編 山川出版社

ジョン・ノーブル・ウィルフォード/鈴木主税訳 『地図を作った人びと 古代から観測衛星最前線にいたる地図製作の歴史』2001 河出書房新社

引用文献

『日本大百科全書』1994 小学館

政春尋志著 『地図投影法 地理空間情報の技法』2011 朝倉書店